数字1889の意味と解説
1889年(明治22年)2月11日、紀元節の日に大日本帝国憲法が発布された。伊藤博文を中心に、プロイセン憲法を範として起草されたこの憲法は、天皇が国民に与える形式の『欽定憲法』であり、第1条で天皇が統治権を総攬すると定める一方、『臣民の権利』は法律の範囲内でのみ認められる制限的な性格を持っていた。この辞典の1877エントリーが『1889年の大日本帝国憲法発布に伴う大赦により正三位を追贈され』とすでに予告していた通り、発布と同日に出された大赦令(勅令第12号)により、西南戦争で賊軍とされた西郷隆盛の名誉も回復された——ただしこの大赦は西郷個人向けのものではなく、旧自由党系458名の赦免も含む広範な恩赦だった。
数学的な性質・豆知識
1889は2〜43までのすべての素数で割り切れないことが確認できる素数だ。数としての性質に加え、1889年は大日本帝国憲法が発布された年として知られる。1889年2月11日、伊藤博文を中心にプロイセン憲法を範として起草された憲法が、天皇が国民に与える『欽定憲法』の形式で発布された。第1条で天皇が統治権を総攬すると定める一方、『臣民の権利』は法律の範囲内でのみ認められる制限的な性格を持っていた。この辞典の1877(西南戦争)エントリーが予告していた通り、発布と同日の大赦令(勅令第12号)により、西南戦争で賊軍とされた西郷隆盛の名誉も回復されている。『アジア初の近代憲法』とされることがあるが、実際には1876年のオスマン帝国『ミドハト憲法』が13年早く、より正確には『東アジア初の近代憲法』と位置づけるのが実態に近い。1890年11月29日の施行と同時に第1回帝国議会も開会し、近代国家としての制度的な骨格が整った。桁の和は1+8+8+9=26で、さらに2+6=8に還元される。
縁起・風水・吉凶
伝統的な吉凶の対象ではなく、伊藤博文らが起草し天皇主権を定めた『大日本帝国憲法』が発布された年として日本史に刻まれる数字です。
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。伊藤博文を中心にプロイセン憲法を範として起草され、天皇が国民に与える形式の『欽定憲法』として、天皇主権と法律の範囲内での臣民の権利を定めた。この辞典の1877(西南戦争)エントリーからちょうど12年後、発布と同日に出された大赦令により西郷隆盛の名誉も回復されている。1890年11月29日の施行と同時に第1回帝国議会も開会し、近代国家としての制度的な骨格がここに整った。ただし同年10月には大隈重信が爆弾テロで重傷を負う事件も起きており、制度の確立と対外的な混乱が同居した年でもあった。
よくある質問
Q. 大日本帝国憲法はどんな性格の憲法ですか?
A. 天皇が制定し国民に『与える』形式の『欽定憲法』です。第1条で天皇が統治権を総攬すると定め、統帥大権・外交大権・非常大権など広範な天皇大権を規定していました。一方で『臣民の権利』(居住・移転・信教・言論など)は『法律ノ範囲内』でのみ認められる制限的な性格を持ち、法律さえ制定すれば権利を制限できる『法律の留保』という構造を持っていました。1890年11月29日に施行され、同日に第1回帝国議会も開会しています。
Q. 大日本帝国憲法は『アジア初』の近代憲法なのですか?
A. 単純に『アジア初』と呼ぶのは不正確です。それより13年早い1876年、オスマン帝国が『ミドハト憲法』を制定しており、これがアジア初の近代憲法とされます。ただしミドハト憲法は1877〜78年に露土戦争を口実としてスルタンにより停止され、専制政治に逆戻りしました。nippon.comなどは大日本帝国憲法を『東アジア初の近代憲法』と表現しており、『アジアで最初に定着した立憲君主制の憲法』という限定つきの評価が実態に近いといえます。
Q. 西郷隆盛の名誉回復はどのように行われたのですか?
A. この辞典の1877(西南戦争)エントリーで触れた通り、西郷は西南戦争で敗れ『賊軍の将』として自刃しました。憲法発布と同じ1889年2月11日に出された大赦令(勅令第12号)により西郷の賊名は除かれ、正三位が追贈されました。ただしこの大赦令は西郷一人を対象にしたものではなく、自由民権運動に関わった河野広中・大井憲太郎・星亨ら旧自由党系458名の赦免・出獄も含む、広範な恩赦の一部でした。
Q. 1889年に起きた他の出来事には何がありますか?
A. 同年10月18日、条約改正交渉に反対する玄洋社員・来島恒喜が、外務大臣官邸から出てきた大隈重信の馬車に爆弾を投げつける事件が起きました。大隈は右脚を切断する重傷を負い、来島はその場で自決しました。この事件をきっかけに黒田清隆内閣は条約改正交渉の中止を決め、黒田首相自身も同月中に辞職しています。憲法発布によって国家の骨格が整えられる一方で、条約改正という別の大きな課題では深刻な混乱が続いていた年でもありました。
出典・参考
公開日: 2026-08-26