数字1877の意味と解説

1877年2月、鹿児島の私学校生徒らによる陸軍弾薬庫襲撃をきっかけに、西郷隆盛を盟主とする薩摩士族約1万3000人が明治政府に対して蜂起した。同年9月24日、追い詰められた西郷は鹿児島・城山で自刃し、『日本最後の内戦』とされる西南戦争は幕を閉じる。この辞典の1868(明治維新)からわずか9年後の出来事だ。原因は、西郷の下野につながった1873年(この辞典の1873エントリーの年)の征韓論政変、秩禄処分・廃刀令による士族の特権剥奪、私学校の存在など複合的で、両軍あわせて1万3000人前後とされる犠牲者数も、政府軍・薩摩軍どちらの死者が多かったかは資料によって記述が分かれている。

数学的な性質・豆知識

1877は素数1877年、西南戦争(西郷隆盛を盟主とする鹿児島士族の蜂起、日本最後の内戦)奇数桁の和:1+8+7+7=23→5

1877は2〜43までのすべての素数で割り切れないことが確認できる素数だ。数としての性質に加え、1877年は西南戦争が起きた年として知られる。1877年2月、鹿児島の私学校生徒らが陸軍弾薬庫を襲撃したことをきっかけに、西郷隆盛を盟主とする薩摩士族約1万3000人が明治政府に対して蜂起し、同年9月24日、西郷が鹿児島・城山で自刃して終結した。この辞典の1868(明治維新)エントリーからわずか9年後の出来事で、1873年(この辞典の1873エントリーの年)の征韓論政変で下野した西郷と、その後の秩禄処分・廃刀令による士族の不満が背景にある。徴兵制による農民主体の政府軍が最強とされた薩摩士族に勝利したことで、『軍事は士族の独占』という旧来の秩序が崩れ、日本最後の内戦として歴史に刻まれた。桁の和は1+8+7+7=23で、さらに2+3=5に還元される。

縁起・風水・吉凶

伝統的な吉凶の対象ではなく、西郷隆盛を盟主とする鹿児島士族らが明治政府に対して蜂起した『西南戦争』——日本最後の内戦とされる出来事の年として歴史に刻まれる数字です。単純な吉兆として扱うことは適切ではありません。

日本

1877年2月、私学校生徒らによる陸軍弾薬庫襲撃をきっかけに、西郷隆盛を盟主とする薩摩士族が明治政府に対して蜂起した。政府軍との激しい戦闘(田原坂の戦いなど)を経て、同年9月24日、西郷は鹿児島・城山で自刃し戦争は終結した。征韓論政変・秩禄処分・廃刀令など複合的な要因が背景にあり、両軍あわせて1万3000人以上とされる犠牲者を出した『日本最後の内戦』として位置づけられる。この辞典の1868(明治維新)からわずか9年後の出来事であり、士族という身分による軍事の独占が実質的に終わりを告げた転換点でもある。

よくある質問

Q. 西南戦争はなぜ起きたのですか?

A. 単一の原因ではなく、複数の要因が積み重なった結果です。1873年、朝鮮への使節派遣をめぐる『征韓論政変』で西郷隆盛が下野し鹿児島に帰郷したこと、帰郷士族の受け皿として1874年に設立された『私学校』の存在、秩禄処分(1876年、士族への俸禄の廃止)や廃刀令(1876年)による士族の特権剥奪への不満、徴兵令(1873年)による軍事独占の喪失などが背景にあります。直接のきっかけは1877年1月、私学校生徒らが政府の弾薬移送に反発して陸軍の弾薬庫を襲撃した事件でした。

Q. 西南戦争の犠牲者はどれくらいですか?

A. 資料によって数字に幅があります。政府軍・薩摩軍あわせて1万3000〜1万6000人程度の死傷者が出たとされますが、どちらの軍の犠牲がより多かったかは出典間で記述が逆転しており、確定的な数字を示すことはできません。動員兵力も、政府軍が5万8000人前後、薩摩軍が最終的に2万〜3万人程度という記述が一般的ですが、こちらも資料により幅があります。

Q. 西郷隆盛はその後どう評価されましたか?

A. 西郷は『賊軍の将』として死去しましたが、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布に伴う大赦により正三位を追贈され、名誉を回復したとされます。1898年には東京・上野公園に西郷隆盛像が建立されました。ただしこれは戦争そのものの犠牲や複合的な原因とは切り離された、後年の政治的な位置づけ直しであり、西南戦争そのものを単純な美談として描くことはできません。

出典・参考

公開日: 2026-08-25